今月の熊G 2026年10月
「俺を園長にしてください」あれは9年前の9月、55歳の誕生日の2日前だった。「えっ?! ちょっと待って!」当時の園長はのけぞった。それが熊Gの人生の2度目の転機だった。
建設フィーバーのバブル期に建築学科を卒業した熊Gは、声のでかい学生から順番にゼネコンに入るような超売り手市場の就活状況を見て、これならなにもすぐに社会人にならなくてもいいじゃないかと大学院に進んだ。建築史を専攻しアメリカの大学で研究をし、帰国して博士号を取得したのが30歳。ふつうならそこから教授をめざす研究の道に進むパターンだが、ここで1度目の転機。自分で設計事務所を立ち上げ建築業界に飛び込んだ。ところが時は90年代、すでにバブルは崩壊し失われた20年がはじまっていた。建設ブームはとうに去っていたが、運よく長野オリンピックがらみの大きな仕事が舞い込んで、なんとか設計業界に地歩を築くことができた。
37歳で息子が生まれた。当時は東京の事務所に鎌倉から通勤していた。設計事務所は朝が遅いので、息子を保育園に送ってから出勤できたが、帰りは毎日終電だった。でもその子が3歳になったときに鎌倉に仕事場を移し、子育てに参加した。
当時息子が通っていたのは鎌倉の材木座の海を望む園舎だった。というと聞こえはいいが、かつての漁師町の民家を借りていた無認可時代のピヨで、庭はお風呂場ほどの広さ。だから浜辺が遊び場だ。毎日海で過ごして子どもたちは楽しそうだが、保育士たちは狭い部屋と安い給料にがまんしてがんばっていた。そこで前園長はピヨを認可保育園にする決意を固め、父母会長だった熊Gが認可準備室長になった。
認可には園舎がいる。園舎には土地がいる。職員と土地探しを始めた。「あそこの保養所跡が売りに出でてたよ」「不動産屋から土地を紹介されたよ」いろんな情報が舞い込むたびに園長から呼び出され、「ここでどんな園舎が建てられるか設計して」と地図を渡され、見に行かされた。仕事の合間に園舎の図面を描き、さらに保育士たちは図面じゃわからないから模型もつくった。でもなかなか条件に合う土地は出てこない。5、6か所の敷地で設計した。もちろんボランティアである。設計料をもらうどころかその間も認可の資金集めのバザーやらあやしい絵画展やらを保育士といっしょにやる日々だった。楽しかった。
そして10年。いい土地が見つかった。借地でそんなに広くはないが、裏山があり、民家からは距離があり、日当たりもいい。ピヨピヨ保育園がめざしている保育についてはもう十分にわかっていたので、それにふさわしい開放的で木の香りあふれる園舎を設計した。ちゃんと設計料も出た。2011年春に認可保育園として開園した。
それから数年後、前園長が病を得て園長職を続けられない事態となり、急きょ理事会で後任を探すことになった。だが引き受けてくれる人がいない。熊Gは園舎完成後に理事になっていたがやはり心当たりがなかった。そんな時、保育士資格がなくても園長はいいんだよと聞いた。
建築家の仕事は面白い半面、不安定でもある。大きな仕事でどーんと儲かるときもあれば小さい住宅の設計でしのぐときもある。それに25年もつづけていると毎度の事務作業に倦んでくる。ピヨの園長?保育の仕事はズブの素人だけど経営ならおぼえがある。職員はみな顔なじみだし、いい人が現れるまでのつなぎと考えればいい。設計事務所はたたむことにした。
今考えてみると前園長がすごい。よくぞ畑違いの熊Gを園長にしたとおもう。交代したあと手術して恢復し理事長になったけど、昨年年齢を理由に勇退し、熊Gが園長兼理事長となった。
この保育園に息子も熊Gも育ててもらった。その感謝の気持ちで園長を続けてきたが、トシには勝てず、そろそろ3度目の転機が近づいてきた。おあとがよろしいようで。
熊倉洋介

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